(11)元和大殉教の勇者、三箇アントニオ

地域の発展を心から願っておられた故神田宏大先生より当ブログへの掲載のための協力と許可をいただいたものです。

 

十一 元和大殉教の勇者、三箇アントニオ

 

三箇キリシタンとして

河内三箇城主、三箇頼照(サンチョ)には三人の子供がいました。長男は三箇頼連(マンショ)であり、三男は頼遠と言います。三箇頼照の孫に当たる人たちについては、頼遠の子供三箇頼植(アントニオ)、頼成(マチアス)の二人は献身して、セミナリオ(初等神学校)で学んでいました。

彼らは三箇の教会が近畿地方で最も栄えていた一五六九年頃、飯盛山麓で生まれました。きっと、復活祭の時、城主であった祖父、三箇頼照と共に深野池で六十隻の飾り立てられた船の一隻に乗ってイースター(復活祭)パレードを楽しんだ事と思います。

イエスのために献身し一五八一年にアントニオは神学生でしたが、巡察師のバリニヤーノは「彼は不器用で、大した人物でなく、頭を患っていた」と記述しています。彼はセミナリオから退学処分になったようです。また、『日本切支丹宗門史』を書いたパジェスは、彼の後に残した歴史的な業績を知って、好意的に「九歳の時から、ある教会に奉仕に上げられ、その後、司祭志願者の資格でイエズス会に入った。病身のため、已むなく会を出た。彼は結婚し、伝道士の職を守った。俗人として彼は常に修道士の生活を送った」(『日本切支丹宗門史』中、註51)と述べています。

 

神に選ばれた器

キリシタン史を学んでいると、イエズス会の巡察師バリニヤーノの信仰と、物事の思考方法に共感する事がしばしばあり、素晴らしい指導者として尊敬しています。しかし、三箇アントニオの評価については少なからず失望しました。

 

昨年、関西聖書学院「四十周年の歩み」を記録したビデオを作成しましたが、私も信仰を持って四十数年に成りました。このビデオを見ながら私の神学生時代が走馬灯のように思い出されてきます。

英語ができず、ギリシャ語の教室を追い出され、説教学の教師は、「神田君は話は上手だが、話に内容が無い」と批評され、後に院長になられたT先生からは口頭試問の理事面接の時、「神田君、君はもう真面目になるか、もう真面目になるかと思っていたが、最後まで真面目にならんかったなあi」と院長や理事の先生方の前で言われてショックでした。

「こんな自分に牧師が務まるだろうか」、と考え続けていました。卒業して二十年以上してT院長から「神田先生。聖書学院で『説教学』教えてくれませんか」と言われて驚き、「私で良いのでしょうか」と問い直した事を今でもはっきり覚えています。

 

ロレンソ了西の時にも引用した御言葉のように、「神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」(Iコリント一・二七、二八口語訳)と言われていますが、神が、神に仕える主の僕を選ばれる基準の不思議を痛感しました。

 

アントニオの殉教への道

三箇アントニオは、一六二二年九月十日、長崎で奥さんのマグダレナと、他の大勢のキリシタンたちと共に火あぶりの刑で殉教しました。その事についてはパジェスの『日本切支丹宗門史』中巻(岩波文庫)に詳しく記述されています。

それによると、キリシタンとして処刑される人々は長崎西坂の聖山と呼ばれる丘まで連行されて来ました。すべての殉教者たちは道々、「真珠のような素晴らしい神の言葉をザクザクとまき散らし」沿道にいる人々に説教をしながら刑場まで行ったそうです。

彼らの処刑された場所は、二十六聖人が殉教した場所からわずか百五十歩、海の方に離れた所でした。二十五本の柱が立てられていましたが、いつもとは異なり、普段は早く苦しみをなくすために柱に薪が近付けてありましたが、この時、薪は遠ざけられ、火勢を弱めて苦痛を長びかせ、犠牲者たちを絶望の誘惑にさらすために、わざわざ水をかけて火勢は弱められるように計画されていました。

夜明け前から、十万余の人々が一目、殉教者を見ようと丘という丘をうずめつくしていました。最後に、火あぶりの二十五人の他に、斬首刑の三十三名の殉教者が長崎から到着し、彼らと共に賛美歌を合唱しました。

スピノラ宣教師は、群衆に対して、「我々の中の誰かが苦しがっても驚かないでいただきたい。そうでなかったら不思議でしょう。一寸の苦痛でもこたえるような弱く柔らかい肉体しか持っていないのに、今、この残虐な恐ろしい試練にあって、余計にそれを感じるのは当然の事ですが、しかし、私は、我が創造主の全能を信頼しています。従って、私は、その栄光と我らの神の愛とを現す一切のものに耐える力を期待します」と語り、他の修道士も炎の中からメッセージを人々に語り続けました。

ローマにあるジェスイット教会に展示されている「元和大殉教図」は、この時の様子を世界のクリスチャンに伝えようと、殉教を目撃した人、もしくはその人から様子を聞きながら描いたと思われる、生々しい記録絵として今日まで残っています。

その絵を見ると、パジェスの記録と同じように、海の方から、「一、イエスズ会の伝道士、アントニオ・サンガ」、と記録されていますので、すぐに一番目の三箇アントニオを見つける事ができます。

また、京都、南蛮寺に小天文台を作り、日本における月食の科学的観測の祖となった有名なスピノラ宣教師が五番目の柱につけられています。

アントニオの妻マグダレナは、第二列の二十番目で斬首されたと記録されています。

 

アントニオは牢中で三十余人の未信者を導き、転んだキリシタンを再び信仰に復興させる働きをしました。

彼が五十五歳で殉教する前に書きとめた手紙は、『日本切支丹宗門史』を書いたパジェスを感動させた事がわかります。人の目から人を評価する事の愚かさと、神が選ばれる不思議さに驚きと感謝をささげたいと思います。

 

パジェスを感動させた三箇アントニオの手紙

「イエズス会のいとも卑しい僕でありながらも、管区長やその他に日本に在らせられるイエズス会の宣教師の皆様方へ謹みて手紙を書きます。私もイエス・キリストの為に捕らわれの身となりました。神のために我が身の血を注ぐようになることは誠に大きな御思い、不思議な御恵みであることを思えば、このすべて大いなる御慈悲の源である神の御賜わりと存じ、また特に聖きイエズス会のお蔭だと感謝しています。

 

この身が幼少の頃より今までの事を顧みますれば、九歳か十歳の時にセミナリヨに入ってから、日本のいろは、ヨーロッパのABCを学んでより、何事も聖きイエズス会の御賜物を頂戴して仕えるだけで、このような相応しくない我が身を修道士としてお仲間に加えて下さった事や、このようにして頂いたのに我が身の病弱なために、上長の御許しを得て、仲間を辞した事も、聖きイエズス会より受けた御恩は一日も忘れていません。

そこで受けた事を心に思い、迫害の中にもキリシタンの人々を励まし、また人々に霊的な書物を読み聞かせ、未信者にはキリスト教問答の教えを授けています。信心が弱くて転んだ人がいれば、立ち上がらせるためにあらゆる手をつくし、死んだ人のためには葬り墓を作っています。

イエスのために召し捕られて以来、そう長くはありませんでしたが、三十人をキリシタンとし、信仰の不思議に導きいれました。彼らの霊的な成長と共に祈りやいろいろな事を教えようと思っています。このように牢屋の内にはイエス・キリストの信仰を公に告白して殉教者になるべき人々が数多くおりますので、昼夜、その人たちを励ましております。

 

これらの事すべて、幼少の時より聖きイエズス会の教えを受け賜った事であり、その御恵みに対してお礼申し上げ、また長い年月この身を御懐にはぐくみ賜いし御主に御礼申し上げています。相応しからぬ子ですが皆様のために主の御加護がありますように祈っています。

先輩である三箇頼照や結城弥平次、その他の人々は信仰に入って以来イエズス会の宣教師方と連絡を取り、他の道にそれずに……いとも美しい実例を示されました。この身はあわれな罪人でありますが、同じ泉の水を飲んで……最後までもこの感じと、この確証を守るように勉めています。……

福音の使者としてこの牢屋に捕われている事について、我が主に御礼申しあげます。

敬愛の炎に焼き尽くすべき死を与えて下さった我が主の御為に、生きながら焼き殺される日も遠くない事を喜んでいます。たとえこの世ではイエズス会の修道士として受け入れられなくても天上においては、イエス・キリストも天の父なる神もこの身をお迎え下さる事を知っています」と感動的な殉教を前にした心の状態を伝えています。

 

彼は不器用で、大した人物でなく、頭を患っていた」と評価されて、イエズス会から追い出されましたが、彼の信仰は今も輝き、現代のクリスチャンの魂をも奮い立たせてくれています。

また、彼が「河内キリシタン」の中で、お祖父さんの三箇頼照や、四条畷岡山の結城弥平次などを自分の信仰の目標の実例としていることに、『河内キリシタン人物伝』を書いている私も励まされます。

 


河内キリシタン人物伝

目次

推薦文

はじめに

一 盲目の琵琶法師、ロレンソ了西

二 三箇城主、三箇頼照サンチョ

三 若江、八尾城主、池田丹後守教正

四 「二十六聖人」三木パウロの父、三木半太夫

五 河内に福音をもたらした四条畷岡山城主、結城左衛門尉アンタン 

六 河内で最も美しかった「砂の教会堂」 

七 結城弥平次ジョルジ 上 河内キリシタンの落日と広がり 

八 キリシタン迫害の始まり 秀吉の「伴天連追放令」

九 小西行長の信仰と行動

十 結城弥平次ジョルジ

十一 元和大殉教の勇者、三箇アントニオ

十二 近畿最後の宣教師、デイオゴ結城了

十三 三箇城跡に立って

あとがき

参考引用文献

筆者神田宏大(かんだひろお)プロフィール