(1)盲目の琵琶法師、ロレンソ了西

地域の発展を心から願っておられた故神田宏大先生より当ブログへの掲載のための協力と許可をいただいたものです。

 

1 盲目の琵琶法師、ロレンソ了西

 

ロレンソ了西は肥前の国、平戸の生まれで、琵琶法師として琵琶を弾きながら「平家物語」を語り、門付けをしていた体のよい乞食のような人でした。

彼は一五五一年に山口で、日本で最初にキリスト教を伝えた宣教師フランシスコ・ザビエルと出会いました。彼はイエス・キリストを信じて洗礼を受け、霊名をロレンソと名付けられ、献身して宣教師の手伝いをするようになりました。それまで、「平家物語」を語っていた口が、キリストの福音を伝える口に変えられ、通訳としてザビエルや他の宣教師たちを助けるまでになりました。

 

関西に於けるロレンソの働き

ロレンソは山口を基盤として伝道活動を手伝い、時にはポルトガル船の貿易港であった平戸(彼の生家白石は、平戸の郊外、現在の生月島にかけられた橋のたもとにある)の両親にも福音を伝えに行きました。

彼はザビエルが日本を去ってからも宣教師を助け、一五五六年にザビエルが果たせなかった京都での布教準備をするために上洛するようトルレス宣教師から命じられました。

しかも、財政的に豊かでなかったイエズス会は、昔、琵琶法師として門付けをしていたロレンソに托鉢をしながら上洛するように命じたのです。

彼は当時、日本で最も主要で著名な教育の場であり、都の政治に関して絶対的な支配権を持っている仏教の牙城、仏教の大本山である比叡山に乗り込みました。そこで彼はトルレス宣教師の代理として、帝釈寺の心海上人という将軍・足利義晴の臨終に立ち会った程の著名な八十三歳の高僧らと語り合いました。

ロレンソは山口に帰り、豊後に行ってイエズス会の指導者に京都での報告をしました。

 

一五五九年にトルレス宣教師は近畿での布教に力を入れようと、ガスパル・ビレラ宣教師と、ロレンソ修道士、ダミアン修道士の三名を派遣しました。ザビエルは戦乱の荒れ果てた京の都に失望し、わずか十一日の滞在で、当時「中国地方の京都」と言われていた山口に去りましたが、十年後のビレラやロレンソたちは、ザビエルができなかった京都、近畿地方の伝道に情熱を燃やし、再び布教を開始するために都に上って行きました。

しかし、京都での布教は非常に困難が伴いました。今まで見た事もない白人の宣教師に家を貸してくれる人さえいません。やっと借りられた所は、町外れの最も貧しい人々の住む場所で、非常に古い、今にも倒れそうな掘建て小屋、まるで馬小屋のような所でした。屋根は藁で葺いてはいますが、内部は外部と変わらないほど雨が降ったそうです。隣は共同便所で悪臭がただよう最悪の環境の中で京都の布教の働きが始まりました。

 

ロレンソはビレラ宣教師と共に妙覚寺に行き、将軍、足利義照に布教許可を求めました、許可は与えられましたが、都を支配していた松永久秀はキリシタンに対して冷淡であり、迫害は止む事がありませんでした。京都を転々としながらも宣教師の身に危険を感じて、彼らは堺に一時、避難をしました。

 

奈良・河内での魂の収穫

一五六三年、松永久秀の重鎮であった博学の結城山城守忠正と、公家の清原枝賢、高山右近の父であった大和沢城主、高山飛騨守らをロレンソは奈良で信仰へと導きました。そしてビレラ宣教師が奈良に来て数人の人々と共に彼らに洗礼を施しました。

 

その中に結城山城守の息子、結城左衛門尉がいました。彼は河内の国、飯盛城主、三好長慶に仕え、四条畷岡山城の城主でした。彼は河内に帰って、奈良でイエス・キリストによって救われた喜びを誰にでも情熱的に語るので、三好長慶や飯盛城の武士たちは結城左衛門尉を喜ばすため、飯盛城でキリスト教の集会を興味半分で行う事にしました。この時、飯盛城での集会の講師として派遣されてきた人物がロレンソ了西でした。

宣教師フロイスの名著『日本史』には、この時のロレンソについて、

「外見上は、はなはだ醜い容貌で、片目は盲目で、他方もほとんど見えなかった。しかも貧しい穢い装いで、杖を手にして、それに導かれて道をたどつた。

しかし、神は、彼が外見的に欠け、学問も満足に受けないで、読み書きもできない有り様であったのを、幾多の恩寵と天分を与えることによって補い給うた。

すなわち、彼は人並優れた知識と才能と、恵まれた記憶力の持ち主で、大いなる霊感と熱意を持って説教し、非常に豊富な言葉を自由に操り、それらの言葉はいとも愛嬌があり、明映、かつ思慮に富んでいたので、彼の話を聞く者はすべて驚嘆した。

彼は幾度となく、はなはだ学識ある僧侶たちと討論したが、神の御恩寵によって、かつて一度も負かされた事がなかった」

と記録しています。

 

飯盛山でのリバイバル

ロレンソが飯盛城に到着し、三好長慶の武将たちが彼を見ると、ある者はその容貌を嘲笑し、またある者はその貧しい外見を軽蔑し、さらにある者は、自分の霊魂の救いを願う事よりは好奇心から、彼の話を聞きたがったようです。

 

飯盛城での説教は神がロレンソと共におられたので、弁説にかけては大胆不敵に語ったようで、人々は初めとは違った考えや意見を抱いて、彼に対して敬虔の念を表し始めました。そこで多くの質問が飯盛城の武士たちから出され、昼夜の別なく討論が行われました。その結果、三好長慶幕下の七十三名の主だった武士たちがキリシタンになる信仰の決心をして飯盛城で集団洗礼を受けました。

三箇城主の三箇伯耆守頼照、八尾、若江城主の池田丹後守教正、河内長野の烏帽子形城主の伊地智文太夫、三好長慶の武将、三木半太夫らが集団で信仰を告白し、河内は近畿におけるキリシタン活動の中心地になり、やがて七千名のキリシタンたちが信仰を守るようになり、「河内キリシタン」と呼ばれる信仰集団にまで育ちました。

日本キリシタン史最大の働き

ロレンソは織田信長や、豊臣秀吉に何回も謁見をしました。彼は足利将軍や戦国時代の指導者たちにも謁見して彼らにキリスト教を伝え、日本のキリシタン史に最大の影響を与えた人物と言う事ができます。特に関西においては、彼の働きなくして「近畿キリシタン史」は語れない程です。

朝山日乗上人という日蓮宗の憎が畿内でキリシタン追い落としを計画していました。フロイスは、彼を「悪魔の道具として利用された者で、羊の皮を着た狼のように、日本の同じ諸宗派の知識すら無いのに、老獪(長い間世俗の経験を積んで狡猪で悪賢い事)で、弁説においては目本のデモステネスのような人物で、権力者に取り入って信長にも仕えていた」と伝えています。村井早苗氏は、「正親町天皇を中心に、朝廷内にキリシタン排除に奔走する勢力が存在し、日乗もその一端を担っていた」(『天皇とキリシタン禁制』)と、日乗の背後に大きな反バテレンの組織が存在していた事を指摘しています。

ロレンソは、岐阜城で信長と三百人の信長の家臣を前にして、日乗と宗教論争をして彼を論破しました。

 

彼は非常にユーモアも持ち合わせた人物で、一五八五年に秀吉が関白の位に就いた頃、大坂城にあった教会を秀吉がふらっと訪ねてきました。そして、長時間の交わりの時、「自分がキリシタンになるためには差し障りがある。それは多くの妻を持つ事を許されない点である。だから、もし、予に多くの女を侍らす事を許すならば、予はキリシタンになるであろう」と言いました。すると日本人の修道士ロレンソは、「殿下、私が許して進ぜましょう。キリシタンにおなり遊ばすがよい。なぜなら、殿だけが(キリスト教の教えを守らず)地獄に行かれる事になりましても、殿がキリシタンになられることによって、大勢の人がキリシタンとなり救われるからでございます」と答えました。この返事に秀吉はたいへん笑ったというのです(『南蛮太平記』松田毅一著)。

 

ロレンソは目だけでなく、足も不自由であったようです。体が不自由で乞食生活をしていた琵琶法師が、イエス・キリストに出会い、九州や近畿地方を何度も往復し、時には岐阜にまで行き、信長に布教の安全を守ってもらうことを願い出ました。

 

神は体の不自由なロレンソを用いて、日本キリシタン人物史の中で、日本人の伝道者として最大の働きをなさせたのです。

 

一五九〇年八月十三日から島原半島の加津佐で開かれた「第二回イエズス会会議」の記録に、日本人修道士の筆頭として彼の名前が記されています。

おそらく、関西で共に働いていたオルガンチノ宣教師と一緒に九州に下って行ったと思われます。それ以来、一五九二年二月三日、長崎において六十六歳で天国に召されるまで、衰弱していた彼は九州に留まりました。

ロレンソ了西が直接、信仰に導いた人々が七千名もいたことからも、彼の働きの素晴らしさ、さらに人柄の素晴らしさを理解していただけると思います。神様は知恵ある者や高慢な高ぶる者をはずかしめるために、あえて無力に見える小さな乞食のような琵琶法師を用いて素晴らしい宣教の器としてくださいました。

 

「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずか

しめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。……これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」

(Iコリント一・二七-二九)

 


河内キリシタン人物伝

目次

推薦文

はじめに

一 盲目の琵琶法師、ロレンソ了西

二 三箇城主、三箇頼照サンチョ

三 若江、八尾城主、池田丹後守教正

四 「二十六聖人」三木パウロの父、三木半太夫

五 河内に福音をもたらした四条畷岡山城主、結城左衛門尉アンタン 

六 河内で最も美しかった「砂の教会堂」 

七 結城弥平次ジョルジ 上 河内キリシタンの落日と広がり 

八 キリシタン迫害の始まり 秀吉の「伴天連追放令」

九 小西行長の信仰と行 動

十 結城弥平次ジョルジ

十一 元和大殉教の勇者、三箇アントニオ

十二 近畿最後の宣教師、デイオゴ結城了

十三 三箇城跡に立って

あとがき

参考引用文献

筆者神田宏大(かんだひろお)プロフィール